遺骨塚

広大演劇団OBの日記。公演観た時とかに更新します。

書かれないことこそが本質 (Cu企画朗読劇「とりつくしま」感想③〜「日記」〜)

前々回、前回から引き続いて第三回目です。

飽き性、サボり魔、昼寝大明神の三冠馬さながら自堕落な学生時代を過ごしていた私にしては珍しく、あまり間を置かずに更新できてるんじゃないかなと。

そんなわけで、今回はラストのお話、第三話「日記」を観てみての感想を書いていきます。毎度のごとく、まだ未視聴の方は是非一度ご視聴してから記事をお読みください。

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これまでのパターンからして、今回主人公が乗り移ったのが「日記」だったというのは、予測の範疇でした。が、私は生前自分の書き留めた日記に乗り移って、それを読んだ人々との小話で物語が展開されるのでは等と妄想していました。(よくよく考えてみると、これでは日記というアイテムに設定した特性があまり活かされませんね・・・)

蓋を開けてみると、日記は夫に先立たれた奥さんのものでした。亡くなった夫こと、光さんが主人公ですが、これまでの二作品とは少し毛色が異なります。

それは、主人公の光さんよりも、奥さんの方がずっと多くの台詞を話す点です。途中、「希美子(奥さんの名前)が3通に対して僕が1通くらいの割合」で文通していたという光の回想がありましたが、この劇の台詞配分も、まさしくそんな印象を受けました。夫に先立たれた妻の、やるせない思いと寂しさが、全体の三分の二ほどの多大な時間をかけてずっと描写され続けるのです。

最初はまず、結婚前の二人には文通を二年弱ほど続けていた話が掘り起こされ、奥さんが文をしたためることに慣れていた人ということが分かります。夫が亡くなり、その寂しさから急に日記をつけ始めたのではなく、元あった文通という習慣に類似する「日記をつける」行動を行うことで、死後薄まる夫との縁を繋ぎとめようとしているのではないかと感じました。

この辺りでいくつか複線のようなものも貼られていて、「それに・・・」といった気になる書き出しを遺して続きが書かれないという、光さん焦らしプレイ視聴者に「何を書こうとしていたんだろう」或いは「なぜ続きを書かないんだろう」と思わせ、単調になりがちなストーリーにいくらかハリを与えてくれています。

娘のかなの台詞部分も目を引きます。基本、奥さんの日記は夫を喪った喪失感と、それでも無情に流れていく日常への倦怠感を常に引き摺っており、演じ方にも否応なくそのオーラが付与されているのですが、かなの台詞は幼少の子どもらしい、邪気のない元気な声で発音されるので、これも聞いている側としては、良いアクセントになっています。

 

あと、今回もやられました僕の知らなかった雑学シリーズ。今回は雪景色の中で赤く輝く南天の実がそれでした。「たぶんスキー場とかにあるアレだよな・・・」みたいなボヤボヤの想像はつきましたが、相変わらず視聴後には即効でGoogle検索をかけていました。今日も今日とて賢くなったよ。(諦観)

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奥さんの台詞が多いながらも、この作品の主人公はやはり光さんです。日記の終わりごとに彼の台詞が挟まりますが、たぶんこれまでで最も落ち着いている人なんじゃないでしょうか。(桃子さんは既に他界してから大分経っているというのもあるし)一周忌もきていないのにこの落ち着きよう、生前よりいかに物腰柔らかだったかが伺えます。

ただ、光さんが妻を暖かに見守るだけの聖人のように描かれているかというとそういう事もなく、彼女の日記として日々をしたためられ続ける生活を、非常に暖かなものと捉えると同時に「沈痛だ」とも述べています。ただ、「それでも心の傍にいられることを喜びたい」とも言っているので、あくまで物理的な距離の近さばかりがピックされがちだった前二話の二人と異なり、こちらは日記による間接的な対話(一方的な話しかけ?)が成立しており、生者と死者の距離もこれまで以上に近く描写されていたと感じました。

 

そして終盤、起承転結の転がここぞというタイミングで襲いかかります。

これまでと違って書き出しが「◎月◎日」となっており、具体的にどれだけの日数が経ったのかが分からなくなっているのが良かったです。風情があるとでもいいましょうか。

さて希美子がずっと書こうとして書けなかったこととは、ずばり再婚のことでした。ここまで未亡人として、亡き光さんに日記を通して寄り添う姿勢が一貫して描かれてきていただけに、(現実的に考えれば予想できた範疇とはいえ)この展開には非常に驚きました。それと同時に、これまで『日記では語られてこなかったこと』の数々があったことが、遅れて遅れて目に浮かんできます。

希美子が喪正月で感じていた、死者を謂うことの重さ。

仕事始めで振り袖を着てきた正社員の娘たちに感じたであろう種々のジェラシー。

保育園に迎えに行く時に感じた、漠然とした将来への不安。

娘からのふとした問いかけに、つい答えられなくなる自分。

そして、ずっと日記には出てこなかった、光さんからは見えないところで、彼女を支える新しいパートナー。

 

彼女が日記を書き始めたのと、高校の時の同級生に再会したのがどちらが早かったのかはわかりませんが、話の序盤の「それに・・・」からして、早い段階から新しいパートナーの存在は、彼女の生活の中に入り込んできていたと思われます。

しかし前夫への思いから、なかなかそれを打ち明けられない(文通をしていた頃に重ねて日記を書いているので、とりつくしまのルールとは関係なしに、希美子はこの日記が光さんに届いていると感じている)ことへの、後ろめたい思い。そしてそれが日増しに積み重なっていくストレス。しかし新しい人生をスタートさせるためには、やはり古いものとは一度決別しなければならないと決めた、彼女の覚悟。最期に日記に書いた言葉は「見守ってくれてありがとう」で、以後彼女が日記や光さんに対して思いを伝える場面は途絶えます。

これに対する光さんの反応も、すごく共感性の高いもので、最初は自体が呑み込めずに呆然とするんですが、朝日が昇る頃には落ち着いて、「それでいいよ、それでいい」と、すべてを受け入れる菩薩のような精神状態に突入しています。自分はただ妻と娘が新しい門出を迎えるのを見届けたいだけだったのだと、おそらく自分自身にそう言い聞かせている台詞なのだろうとは思いますが、その精神性を貫いて、最期には三人の中で最も綺麗な今際の際の言葉を放っておわります。「おめでとう」と。

私は前回の記事で第一話を「成仏」、第二話を「成仏の逆」と定義していましたが、今回第三話を観た後としては、そもそもの見方を変えてみる必要があるかもと思い始めました。そもそも舞台設定たる「とりつくしま」にしたって、仏教的な輪廻転生からの解脱は目指されてないように感じますし。重要なのは未練の消化云々ではなく、図らずも逝ってしまった人達が、一緒に人生を歩みたかった人達をどう見送るかに重点が置かれた話だったんだなと合点しました。基本こういう悲哀話って、遺された側に立って進むことが殆どなので、幽霊ではない付喪神的なアレを通して死者と生者の交流が描かれるのは、珍しいです。

そして話のオチたる「おめでとう」。新たなる門出に対する祝福として最もシンプルかつ、最もストレートな表現。第二話と並ぶくらい、この第三話も個人的に気に入りました。「ありがとう」じゃない所が最高にエモい。

 

ここからは演者やBGM、SEの話を細々と。

まず光さんの声は、最初こそ聞き取りづらい印象がありましたが、慣れてくるとこれはこれで味があるなと思えるようになりました。意識的に低い声を出していた訳ではなく地声が低いだけだと思うので、もうちょっと喉の奥を開いて発声を繰り返してやれば、より聞き取りやすいボイスに生まれ変わると思います。声以外は特に気になった点もなく、気取ったような演技が一切ない印象から、光さんという実直で物腰柔らかなキャラクターにぴったり合致していたように思います。

奥さんこと希美子さんも、とても良い演技ができていたと思います。娘のかなを演じる時だけ妙に力が入っていた気もしたので、もっと演技する年齢幅を日頃から意識して、バリエーションを増やしたり、切り替えを多用する基礎練習(短時間のエチュードを連続して行うとか?)を積み重ねていけば、確実にこの違和感は消せると思います。次は声だけでなく、タチでの演技も見てみたい役者さんです。これは企画全体に言えることですが、若干演技が固い印象があったので、もっとのびのびと柔らかい演技に期待をしておきます。

BGMはあんまり印象に残ってないのですが、SEは障子を開けたり、枝から実をちぎったり、それこそ何気ない動作の音が中心でしたね。これも三作品共通っちゃ共通ですが、三作品の中では一番違和感なく聞けたと思います。BGMは多少悪目立ちしてもいいけど、SEは基本ほかより目立っちゃダメなので、繊細な音選びが求められます。そういう意味では、印象に残らないことが一番よい評価なのかなーとも。いや違うか。

 

第三話の感想は以上になります。たぶんこれで終わりですが、もし書けたら作品全体を通してのアレコレとか、そういうのを第四回記事として出そうかなとも考えています。頑張れ僕の脳細胞。

ここまで読んでいただきありがとうございました。では。