遺骨塚

広大演劇団OBの日記。公演観た時とかに更新します。

秘めた恋心はどこに棄てるべきか (Cu企画朗読劇「とりつくしま」感想②〜「白檀」〜)

前回は私の稚拙な上に長ったらしい感想をお読みいただき、誠にありがとうございました。すごい急ぎ足でろくな推敲もせずに書き上げたので、今朝起きて読み返したら付け加えたい箇所やまるっと消してしまいたい記述でいっぱいでした。幾つになっても文を書くのは難しい。

さて、前回長々と説明や前置きをしてしまった反省として、今回はさらっと第二話の感想を述べていきたいと思います。まだ動画を視聴していない方は是非一度ご覧になってから続きをお読みください。

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どこか天国めいた不思議な空間の描写から始まった第一話とは異なり、第二話は「仕舞いこまれていた私」が久方ぶりに取り出されたところから話の幕が上がります。この辺は第一話を先に見ていないと少し導入に戸惑うところだと思うので、直接繋がっていない短編集であっても、話数順に見ることは大事ですね。

さて本話の主人公「桃子さん」は、ある夫婦の暮らす家の「白檀の香りのする扇子」に乗り移っています。前のロージンといい、どうもこう馴染みのない用語が続くので、実は自分はひどく常識知らずなんじゃないかと思えてきます。

初見の時は分からないなりに、なんとなく寺のお香のような匂いを想像していたのですが、後で調べてみたところ全くの見当違いではなかった模様。ただ僕の想像している匂いそのままかと言われるとやはり自信はないので、機会があれば実際に嗅いでみたいところです。近くで嗅げるスポットありますかね?()

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男の人が扇子を扇ぎ、それを見た女の人が、今は亡き「桃子さん」の思い出を語りだすことで、物語が動き始めます。前回と異なり時系列が多少前後して話が展開され、扇子として使われている桃子が、思い思いに「ハマ先生」や「奥様」との思い出や心情を徒然に吐露していきます。そして、最期にはまた次の夏まで、箪笥の奥に仕舞われて終わります。

前回がわかりやすく「未練からの解放」「成仏」を想起しやすい流れだったのに反して、今回の桃子さんは、最初こそ未練などないと「とりつくしまがかり」に豪語していたのに、気が付けば思いを寄せる先生の家に、夏のあくる日しか陽の目を見ないとはいえ、ずーっと住み着いて離れないという、ある種「未練の醸成」「成仏の逆を描いています。

特に途中、奥様が夫である先生に対し、桃子に恋心があったことを指摘するシーン等では、演じ方や台詞に棘ひとつ足してやれば、ドロドロとした愛憎劇にすることも出来そうなくらい粘っこい展開に足を寄せてきました。ただ、桃子が先生だけでなく奥様のことも愛してやまなかったこと、自らの思いの成就を生前から諦める覚悟を固めていたことなどによって、そういう方向には話は進みませんでした。(途中、桃子が奥様や先生を呪い◎す話にシフトしないかと若干ヒヤヒヤしました)

代わりに描かれたのは、決して明かしてはならない思いを秘めたまま憧れの先生の傍で毎日を過ごすようになった桃子の、二進も三進もいかなくなった思いの丈でした。これをただの初恋は実らずといった薄い話で終わらせるのではなく、恋仲や夫婦になれない(誰かに言うわけにもいかない)桃子の苦悩と行き着いた先に物語のゴールを設けることで、ストーリーに何とも言えない深みが加えられています。

 

世間体や良識が邪魔して秘めた熱情を伝えられない時に、果たして人はどうするのか。私の好きな夏目漱石の『こころ』では、結局娘さんへの思いを伝えてしまった先生が、後年まで自殺した友人への罪の意識に苛まれ、遂には自ら命を絶ってしまいました。が、この白檀では主人公は思いもよらぬ早世がきっかけで「とりつくしま」に取り憑き、暗く静かな箪笥の中での生前の思いを益々醸成させることとなってしまいました。とはいえ取り憑いた先は命を持たないただの『物』、先生に何かアクションを起こせるわけではありません。彼女がもっと独占欲の強い性格だったなら、生殺しに近い状態では不満が溜まりそうだなとも思います。

ただ、桃子にとってはこれこそが最も良い結末だったのかもしれません。ちょっと上手く説明できないのですが、ある種「先生」や「先生のいる空間」に大きく依存してしまっていた、これと決めたら岩のように決意の硬い桃子が、積年の思いを精算して成仏できるかと言われると、おそらく「それはノー」だと思うからです。彼女は秘めた恋心を死と共に手放し楽になることができた筈なのに、結局は棄てることを選ばず、白檀の扇子という殻の中に永遠に秘めたまま生きることを選んだのです。

 

なんだかボヤっとした感想になってしまいましたが、ここから演者や音声の批評に入ります。

まず演者ですが、前話の「とりつくしまがかり」の男性も含め、演劇団に在籍していた僕にとっては懐かしい後輩たちの声が久々に聞けて嬉しい限りでした。ゆっくり明瞭に台詞を出し続けるというのは、いざやってみると早口でまくし立てる演技よりもよっぽど難しいのですが、三人ともよく出来ていたと感じています。

それと同時に気になったのは、タチでの演技の時には感じられなかった妙なキャラクターっぽさでしょうか。声のみで演じるというと私たちはすぐ「声優」という職業を想起します。架空のキャラクターを演じることを生業としている彼らの存在に引っ張られて、無意識の内に「作られたキャラクター」を演じようとしてしまう効果が、録音用マイクを前にするとついつい生まれてしまうのです。私はこれを勝手に「声つくり症」と呼んでいます。特に、芸能・アニメ関連の興味から放送部・演劇部等に入部した高校一年生に多く見られる症状ですが、今回で言うと先生夫婦に関して、若干そのケが見られたような気がしてなりません。私が普段の二人のタチの演技や声を知っているというのも多分にある所為かもしれませんが、自然でない声の低さというのは、やはり不自然さがどこかに滲み出てきてバレます。魔女の製薬作りのようなトーンで進む桃の皮剥き、全然穏やかな声音じゃない他称穏やかな先生の声など。つくり声自体が悪いというワケではありませんが、今回の朗読劇の作風や二人の会話を加味すると、もっと自然体な風で発話してくれた方が魅力的になったと感じました。多少、イメージより声が若くても、感情の起伏と喜怒哀楽がしっかり出せていれば、あとは僕ら視聴者が脳内で補完することが可能なのは、アニメや吹き替えとは違う「朗読劇」という枠組みで作品を作るメリットかもしれません。

反対に、桃子の演技はとても好きでした。演じられていたMさんは長らく裏方をやっていたので、演者をやるのは久しぶりだったと思いますが、桃子という人間の感情の機微をよく反映した演技ができていたと思います。「物なので動けないもどかしさ」を直接口には出さずとも、奥様の言葉へ強く同意を示すことによって間接的に表現するところとか、脚本側の仕掛けではあると思うんですが、そこを無下にせずしっかり表せていたのとか、全体的にグッジョブでした。少女から大人の女性に成長するにかけて、少しずつ物腰の落ち着いた感じの声音に変わっていたのも良かったです。桃子は、結局最後まで抱え続けた重い愛を盛大にぶちまけたりすることはありませんでしたが、最後箪笥に仕舞われる際の台詞にありったけの重みが載せられていたため、そこが一晩経った今でも脳裏に焼き付いています。おそらく稽古では相変わらず悶々と考える時間を過ごしてたんだと思いますが、もう自分で考えて演じ切れるようになったんですね。三年前の長舞台からの成長を感じられて嬉しいです。

 

SEは、主に扇子関連が気になりました。あおぐ音は、おそらくマイクに直接風を吹きかける感じで撮ったんじゃないかと思いますが、それだとあまり風情がないので、薄紙をヒラヒラとそよがせる音で、こちらは演技とは逆にリアリティーから多少離れて、アニメじみた音表現で代用したりとかすると良い感じになるんじゃないかと思いました。それ以外は、夏の暑さと縁側の涼しさ、教室のわきあいあいとした雰囲気に没入できる環境BGMでしっかり情景が思い浮かべれるようになっていたので、大変良かったかと。

 

最後にまた脚本側の話になりますが、個人的に好きだったのは桃子の「書を通してなら(誰とでも)親しくなれる」という台詞ですね。特に深い意味はない普遍的な言葉だとは思うんですが、意外と少ない、彼女が先生や奥様とは関係なく「書道」に対する好意とその理由を口にした言葉だなぁと。彼女の人の良さ/育ちの良さというか、善性を印象づけるのにも一役買っているのかなと思います。

ちなみに私は重度のカードゲーマーなのですが、遊戯王ZEXALという作品の主人公が「デュエルを通してなら(誰とでも)親しくなれる。一度デュエルしたら、みんな友達」という、非常に似た感じの台詞を劇中で言います。高校生くらいに初見で聞いた時はクサい台詞と一蹴していたのですが、実際に共通の趣味や話題で繋がる大学生や大人の姿を社会の中で見ているうちに、これこそ世の真理のひとつなのでは・・・と思うようになりました。同時に、何かに打ち込むことの美しさ・尊さも内包しているのではないかと、最近は思います。

 

 

最後よくわからん方向に話が脱線しましたが、そのくらい観劇後は色んな思いがめぐるめく作品だったということで。たぶん三作品で一番好きです。(前も言った)

ここまで読んでいただきありがとうございました。次回は第三話です。ではまた。